東神戸教会
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 メッセージ   2014年度のメッセージ   (横山順一牧師)

        

20140406
メッセージ 『 ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』

 その地方独自の風習なり、言い回しがあって、土地外の人には分からないことはある。
 フェニキア地方で主は一人の女性と出会った。難病の娘を癒して欲しい願いを、主は三度に渡って拒否された。通常のイエスからは想像できない冷たい対応だった。が、それにめげず賢い返答をなした女性を、最終的に認められた。通常はそう読めるテキストである。
 だが、山浦玄嗣先生の「ガリラヤのイエシュー」では一変する。ギリシャ語を話す異教の地、冷たくされたのではなく、言葉がにわかに分からなかったと分析されている。
 にも関わらず、懸命の訴えをなす女性の心を主は汲み取られた。いつもイエスのそばにいる弟子たちは、それができなかった。弟子たちは遠い場所に居た。聞こうという思いにほど遠かった。
 女性の賢い返答が素晴らしかったという話ではない。言葉を乗り越えてひたむきに主を頼った切実さを受け入れられた主。実はフェニキアもイスラエルも日本もないのだ。命のことであり、心のことであった。
 聞こうと心を寄り添いたい。

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20140413
メッセージ 『 神は、相乗り!』

 災害や事故はもちろん、みじかな出来事でも大事なものを失った人たちに、不用意な励ましはかけられない。適切な言葉を探すのは、なかなか難しい。
 イエスは、お別れの説教の最後に弟子たちへ「勇気を出しなさい」と語られた。不安に包まれていたに違いない弟子たちは、この言葉をどう受けただろう?
 御自分に起こる逮捕・十字架の近未来の折、自分は一人ではない、神さまが共にいて下さる、と主が語ったのは、それが決して自分だけでなく、弟子たちにも同じことだと伝えたかったからだ。
 それ故に「あなたがたがわたしによって平和を得るためだ」と続けられた。平和とは、平安でもある。
 実は「勇気を出しなさい」は「安心しなさい」とも訳される言葉だ。まだ十字架も復活の出来事も起きてないこの時点で、「私は既に世に勝っている」と最後に宣言なさった主。だから大丈夫、安心しなさい、という深い励ましだった。
 一人の保育園児が「神は愛なり」と言えず「神はあいのり」と言った。素敵なイメージだ。何もかも違う私たちが呼ばれて神さまに皆で相乗りしている。一人では、決してない。

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20140420
メッセージ 『 ロックンロール・イースター』

 どのような分野でも、限界を突き抜けると、その先に広がっている思いがけない世界を見ることができる(限られた人ではあるが)。しかし、それは一般の人の人生の中にも置かれていて、誰でもそれを体験しながら成長する。
 婦人たちが主の墓に急いで駆け付けてみると、石が転がされ、中に遺体がなかった。途方に暮れる婦人らに、二人の天使が語りかけた。「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか」。
 婦人たちにとっては無理もないことだが、彼女たちは自分の範囲内だけの思い込みによって行動していたのだ。だから石が転がされていたことに、まず心を留めることができなかった。
 幸い、天使の言葉によって、婦人たちは生前主から聞いた「復活」が「真実だった」と悟った。が、報告を聞いた弟子たちは信じることができなかった。思い込みが激しすぎたのだ。
 ロックンロールとは、転がすという意味の音楽の一ジャンル。自由を求める音楽だ。思い込みという石を転がして、限界の先に広がる自由の地平へ。復活はその誘い、入口である。

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20140427
メッセージ『 あっ、風が変わったみたい。』

 敬和学園の小西校長の文章を通して、動かされ、向き合わせられる出来事に応えることの大切さを教えられる。
テキストは遺体の無くなった主の墓で泣くマリアについて。弟子たちは彼女を一人残して去った。茫然自失であったろう。そのマリアの背後から主は声をかけられた。本来、不自然な会話である。だが、これこそ、彼女の事を忘れてはいない主の配慮。向き合わせる出来事。
 旧約聖書を読むと、人間の弱さを繰り返し痛感させられる。その弱さを許して再三呼び掛けられる神さまの姿を見る。神さまは遂に人間が自力で立ち帰ることを諦め、一人子を犠牲にされた。本当は怒りの余り、罰を下しても良い十字架の出来事だったが。神さまが自ら向きを変えられた。
 風向きが変わることで、季節を感じる一瞬がある。悔い改めは神さまに心を向けることだ。だが、復活は「あっ、風が変わったみたい!」と、神さまが向きを変えて下さったことを感じる時である。この風に包まれて、私たちは初めて自分の心の向きを変えることができるのだ。

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20140504
メッセージ『 お値段以上、ヒトリ』

 昇天日は第二の受難日と言われる。再度期待を裏切られたかのような日。人間はキリを大事にするが、昇天日はその逆、キリの悪い出来事のように感じる。
 テキストはピラトによる最終判決の場面。主はあちこちたらい回しにされた揚句、ピラトによって死刑を言い渡された。使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみをうけ」と告白するが、実は事実は違う。彼はイエス様の罪を見出せなかった。
 にも関わらず、群衆の要求にあらがうことができず、過ぎ越しの祭りの慣習に乗じて、主に死刑を下した。自分の保身のために、この世的キリを大事にしてしまった。これぞ暴力より怖い人の罪。
 真理とは何か?とピラトは問うた。真理とは神様の道のことである。主はそれを証しして生きられた。神の道を歩むとは、神様が一人一人の命を大事にされ、捉えられ、用いて下さることを知り、感謝する歩みである。自分の現実に照らして牧師はそれをよく知っている。
 この神様の真理の中で、人間の「キリ」は通用しないのだ。神様の計画こそが最優先される。この世の値段を超えて「一人」を重んじられる神様に従いたい。

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20140511
メッセージ『 痛くなったら、すぐイェス!』

 愛ある鞭と、虐待は違う。虐待は痛いと言えない関係だ。自分だけを優先して、相手を認めない「上から目線」の関係に気をつけたい。
 テキストはヤコブの手紙。著者は主イエスの兄弟だった。母と兄弟たちと兄を訪ねたかつては、兄としか見つめられなかった。それ故に兄からの返答はショックだった。だが、兄の生涯を見つめるうちに、間違っていたのは自分だったと知らされた。偽らず生きた兄の生涯は、幸福だったのだ、と。「聞くのに遅く、話すのに早く、怒るのに早い」自分を見つめた。「自分は深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺く」無意味な信仰を、ヤコブは繰り返し自分のうちに見てきただろう。
 なでしこジャパンの佐々木監督の指導は、選手と共に歩む「横から目線」の指導法と言われる。
 ヤコブは実践を勧めた。痛い時は痛いと言える関係を主イエスを通して与えられたからだ。翻って、痛いと言えない関係や場所は、どこかに間違いがある。

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20140518
メッセージ『 あなたの未来を強くする』

 2005年の流行語大賞は「想定内」というものだった。逆に「想定外」の出来事に人はパニックに陥るものだ。
 テキストの舞台はガリラヤ湖。突風が吹いて、イエス一行の乗った船は、あわや転覆の危機に見舞われた。
 この危急の時、「舟を出そう」と命じた張本人たるイエスは、船尾でぐっすり寝込んでいた。その態度が弟子たちの怒りを買った。全員で水を掻き出すべき時、一人だけ何をしているのだ、との不満が満ちていただろう。
 本来、危急時こそ心の余裕を持ちたいものだが、貧しい人間になかなかそれは不可能なことだ。
 が、よく考えれば、そこにはガリラヤ湖の元漁師が4人も乗り込んでいた。気候・地形には熟知していたはずである。彼らを信頼し、委ねたからこそ主は安心して寝ることができたのだ。
 この出来事は、緊急時での冷静さを訴える話ではない。主が弟子たちを信じて任せられたように、神さまは私たちに任せられる。その証が、いつも共にいて下さる主である。私(人間)が強くなくて良い。主が共におられる未来(現在から続く)が強くされるのである。

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20140525
メッセージ『 根性の別れ』 使徒言行録 2:37〜42

 「離婚式プランナー」の寺井広樹さんは、離婚はマイナスではない。前向きの人生に踏み出して欲しいと話す。
 ペトロの証しを聞いた人々は、「深く心を抉られ」、「私たちはどうしたらよいでしょうか?」と尋ねた。ペトロの証しが立派だったからではない。そこで語られた事を通して、自分を見つめ、神さまの愛に気づいたのだ。
 これに対し、「悔い改めなさい」とペトロは答えた。悔い改めは、その後の受洗、赦し、聖霊の出来事と違い、自分自身で為すこと、喜びによる行為。神を恐れ、犯した罪を数え上げ、今後の粛正を誓うことではない。
 悔い改めは神さまの愛に押し出されて為すもの。自分しか見ていなかった生き方から、神さまと隣人を見つめて生きる生き方への方向転換。
 生き抜くために叫ばれる「根性」。だが人生は、耐え忍ぶものではなく、愛に気づき、応えるものだ。
 ペトロの証しに応えた3000人もの人々が、神さまの愛に気づいて方向転換した。私たちもそうでありたい。

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20140601
メッセージ『 会えない時間が愛育てるのサ』

 現NHK連続ドラマの主人公、はなは様々な出会いを通し、先生そして翻訳家へと導かれて行く。
 内田樹先生は「適職などというものはなく、君、頼むよ、で仕事は始まって行くものだ」と説かれる。
 復活の主と再会し、食事を共にして幸せに浸っていたであろうペトロに主が問われ、命じられた。「私を愛しているか?」、「私の子羊を飼いなさい」。
 しかし三度も同じことを言われ、ペトロは悲しくなった(17節)。やはり裏切りの過去がのしかかっていた。
 しかし主の問いとペトロの返答には食い違いがあったのだ。主が三度も繰り返して語られた言葉は、すべてペトロに対する愛の表れだったのだ。
 この後、ペトロは実に大きな仕事をなして、最終的には殉教した。が、その場所、場所での出会いや体験を通して、もはや目には見えない主の愛の意味を一つ一つ実感して行ったに違いない。彼は招かれ、応えることで変えられて行ったのだ。
 「さァ、俺さ付いで来ォ!」(ケセン語訳)、と主は今も私たちを招かれる。

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20140608
メッセージ『 衣食足りて霊節を知る』

 聖霊について説明することは大変難しい。
 が、生前イエスは、聖霊について繰り返し語っておられた。例えば、「聖霊があなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネ16:13)等。
 つまり聖霊の働きは、主の言動を思い起こさせ、その意味を悟らせることだと言われたのだ。弟子たちがほかの国々の言葉で語り出したとは、まさに聖霊の働きによって主を思い起こした喜びの出来事だった。
 殺そうと企てたファリサイ派から逃れた主は、イザヤ書42章の言葉を引用して言葉を語られた。絶望することなく語る。それを通して違う人々に希望が与えられる、と。
 衣食が足りないと安定しない。が、安定すると、とたんに神様を忘れて行く私たち。うわべだけ、皮相の信仰に留まりたくないと思う。聖霊を受け、主の生涯を思い起こし、真理へと導かれたいと願う。

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20140615
メッセージ 『 爆風、スランプ!』

 五月病ならぬ六月病になっている方はいませんか?早く回復されますように。
 テキストは、主とトマス、フィリポの会話。が、主の言葉は、しばしばたとえであったり、象徴だったりが多く、文字通りに受け取るなら、とんちんかんなことになる。そのような出来事が福音書にはたくさん記されている。
 何が語られているのか、その真意、本質、思いを聞かなければならない。とりわけ、神さまや聖霊など、見えないものについては。
 だが、私たちは弟子たち同様、ものごとを具体的にしか受け取れない存在。わたしの名によって願うことは、「何でもかなえてあげよう」と語られた主に、つい具体的なことを望んでしまいがちだ。
 これは永遠の命についての問答である。だからこそ、主は御自分を、永遠の道を知るための道、命、命だと話されたのだ。
 より大きく物を見る時、私たちは驚きの世界に引き入れられる。聖霊は、そこに私たちを導く風だ。
 聖霊の爆風が、私たちの目や心の曇りを吹き飛ばして、澄んだものとして下さるように!

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20140622
メッセージ 『 夢を語れない信仰はつまらない』  マルコによる福音書1:12〜15

 これが当たり前と思える事が、逆に当たり前ではなく、人も自身も不自由にする事がある。
 テキストはイエスの荒れ野の試練。他の並行記事に比べ、マルコは極めて短い記述。
 本来荒れ野は人里離れた誰も行きたくない場所。だが、敢えてそこで活動すると決心した者にとっては、かえって望ましい場所。そこへ行くと決意したイエスにとっても、当初は望むところの場所だったに違いない。それ故、荒れ野に留まり活動することこそ、当初の目的からすれば「誘惑」だったと言える。
 だが主は40日でそれを断ち切られ覆された。ずっとそこへ居続けることが「当たり前」ではなかった。
 「もっと教会を行きやすくする本」(八木谷涼子著、キリスト新聞社)には、教会人にとっての当たり前が、新来者・求道者にとってひどくかい離している例に満ちていて、反省を迫られる。
 当たり前ではない世界へ飛び込めることが、夢を語るということ。それができないなら、信仰はつまらない。夢を語り合える信仰を持ちたい。

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20140629
メッセージ『すべてはお客様のために 』 ヨハネによる福音書 2:1〜11

 貧しいが親孝行で働き者の樵。或る日滝の水がお酒に変わり、病気がちだった老父がそれを飲んで元気になったという養老伝説。
 本日のテキストも水がお酒に変えられた出来事。大事な宴席で酒が足りなくなる不祥事に、マリアは慌てた。主は、清め用の水瓶に水を入れさせた。それがお酒に変わった。それもおいしいお酒となった。この、カナで行われた最初のしるし。それはただ水が酒に変えられた出来事にあるのではない。
 清め用の水のままなら、何の役にもたたない代物。それがより良いものとして用いられたのだ。それこそが「奇跡」だった。
 主の働きは常にそうだった。用いられそうにないものを、用いられるように働かれた。「すべてはお客様(隣人)」のため生きられた主の働き。だからこそ「栄光」とヨハネは記した。
 奇跡的出来事だけを見て信じた弟子たち。それは甚だ表面上の事に過ぎなかった。「すべってはお客様のためにならない」、すべてはお客様のためにある。

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20140706
メッセージ 『本物のニセモノ』

 本物を見極める力をつけるのは、なかなかに難しい。が、基本に忠実なら、そうそう誤ることはないだろう。例えば、憲法九条を当たり前に読む時、武力行使が許されるはずはない。
 テキストはファリサイ派からイエスが「悪霊の頭ベルゼブル」と揶揄された箇所。それは難癖に過ぎない批判だった。が、主は「サタンがサタンを追い出せば内輪もめ」と反論された。
 相手にする必要もない「いちゃもん」に何故イエスは反論されたか。それは癒し本来の意味に彼らが立っていなかったからだ。癒しは、癒しを必要とする人々に対してなされたもの。癒された人々がどんなに喜びを得たか。他者はその喜びこそを分かち合うべきなのだ。
 ボンヘッファ―は、かつて「サタンの知恵」の本質は、真理の仮面をつけて現実性のあるもの一切を否定すること、と書いた。ファリサイ派のいちゃもんは、まさしくそれだった。そして同様の「サタンの知恵」がこの世には満ちている。それ故に本物を見極めるのは確かに難しい。しかし主に従う事(基本)を通して、訓練したい。




20140713
メッセージ 『あなたはわたしの軌跡 』

 小学生の頃、妹にしでかした暴力の傷跡はいつまでも忘れられない痛恨の傷跡となった。
 テキストは、当局を恐れて閉じこもっていた弟子たちに主が姿を現された箇所。ここでイエスは彼らに十字架の傷跡を見せられた。それは弟子たちにとって、自分たちの裏切りの象徴であり、生涯忘れられない痛恨の傷跡だったであろう。
 が、弟子たちはそれを見て「喜んだ」(19節)。この原語「カーラー」は、例えうれしいことでなくても喜べるという意味。更にイエスは「赦す」と言う言葉を語られた。それはもう一度赦され、神の元に共に立つことができるという意味だった。イエスの傷跡は、弟子たちの裏切りと同時にその弱さを引き受けられたしるしでもあった。
 荒井英子先生の遺著「弱さを絆に」に、イエスの生き方を重ねて読みとる。弱さを基にした交わりの中で、なお自立した生き方を目指すその生き方。
 傷跡を見なければ信じないと言い募ったトマスの頑さは人間の弱さの表れでもある。そのトマスに体当たりで主は臨まれた。この主の軌跡こそが私たちを導く絆だ。




20140720
メッセージ 『ま、いいかという名の狂気』

 開拓伝道協議会は、2年の協議の結果、昨年名称変更した。長年使い続けて来た「開拓」という言葉は、侵略的・暴力的な伝道の負の歴史を内包しているからだし、勝手に開拓されたくないという痛みの声があるからだった。
 「羊の囲いのたとえ」なる本日のテキスト。一見分かり易い。だが、これはあくまでもたとえである。永遠の命を説く主と聴く人々の生きた関係性があってこそ、主は先頭に立って導かれる。単純にリーダーの話ではない。それ故にファリサイ派の人々には、このたとえが分からなかった。
 故・マルティーニ枢機卿は生前、形骸化しているバチカンへの批判と問いかけをなした。
カトリックだけの問題ではない。門以外のところから入り込んでくる偽りの羊飼いがいる。福音は上から目線で伝えるものではない。
 真の羊飼いであるイエスにこそ従いたい。ま、いいか、仕方ないとつぶやいて、痛む人の存在から目をそむけたくないものだ。それは人を傷つける凶器ともなり、それに気づかない狂気ともなる。




20140727
メッセージ 『美脚同盟発足』

 吉野弘さん昨「虹の足」(前段に紹介)は深い意味の込められた詩だ。当人に気づかない幸せがある。
洗足の出来事は、足を洗う事を通して「心を洗う」ことだった。そこにはユダがいた。
 主の十字架刑の折、思いがけず主の代わりに命を助けられたバラバ・イエス。もう一人のイエス。彼は自分では何もしないのに助けられた。
 イザヤ書52章7節は、戦勝を告げる者のように、平和を告げる者となるよう記された。電信のない時代、一刻も早く平和を知らせようとした人の足は、汚れ、傷つき、疲れていたに違いない。
けれどもその報告を聞く者にとって、待ちに待った喜びの告げ知らせだったが故に、彼の足はこの上なく貴く、美しく見えたのだ。
 平和が次第に脅かされるこの時代、私たちも高い理想を掲げ、平和を告げる者として用いられたいと願う。美脚同盟の発足だ!




20140803
メッセージ  『逃げるが価値』

 アリラン食堂が歌う「おっちゃんが寝ている」の歌詞。何があっても(戦争が起こっても)おっちゃんは寝ている、と。シニカルだが、深い。
 「キグチコヘイ」が英雄に祭り上げられた時代があった。当時逃げることは許されなかった。
 テキストは派遣命令の続き。ここで主は、危機の際、怯えるなと、まず語られた。語るのは父の霊だから。すなわち人の知恵に頼るな、と。次に、迫害されたら、逃げよ、と続けられた。逃げて良いのだった。命こそが大切だから。
 福音の伝道は、逃げながら進められた。逃げることは、負けでもマイナスでもなく、かえってプラスへ変えられた。
 集団的自衛権が閣議決定され、改憲へと向かおうとする現状は怖い。第二次大戦の折の、M.ニーメラー牧師の「それは遅すぎた」との告白を思い出さずにはおれない。
 勇ましいことを迫る人たちから、逃げて良い。それは価値あることだ。聖書の語る「勇気」とは、大胆に語ることである。




20140810
奨 励 『親として 患者として 父におしえてもらったこと―デカセクシスとは何ですか?― 』
祈 り           白坂大輔さん

キューブラー・ロスという方は「死ぬ瞬間」という本の中で、死の受容のプロセスは以下の5つの段階があるとしている。
〇第1段階 「否認」
大きな衝撃を受け、自分が死ぬということはないはずだと否認する段階。
〇第2段階 「怒り」
なぜ自分がこんな目に遭うのか、死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階。
〇第3段階 「取引」
延命への取引である。「悪いところはすべて改めるので何とか命だけは助けてほしい」あるいは「もう数ヶ月生かしてくれればどんなことでもする」などと死なずにすむように取引を試みる。
〇第4段階 「抑うつ」
取引が無駄と認識し、運命に対し無力さを感じ、失望し、ひどい抑うつに襲われなにもできなくなる段階。すべてに絶望を感じ、間歇的に「部分的悲嘆」のプロセスへと移行する。
〇第5段階 「受容」
死を受容する最終段階へ入っていく。希望を捨てきれない場合もある。受容段階の後半には、希望ともきっぱりと別れを告げ、安らかに死を受け入れる。「デカセクシス(現実世界との完全な断絶を自覚することであり、いわば無への進入に身をまかせること)」とロスが呼んだ状態である。「解脱」と日本語に訳されることがあるがしっくりこない。
この状態で最期の言葉を残すことが多い。(例:ゲーテ「もっと光を」、夏目漱石「もう泣いてもいいよ」)。

ロス博士は凡人でも周囲の人々の愛と協力があればデカセクシスに容易に到達できるとした。また、愛と協力の本質はコミュニケーションであるとした。




20140817
奨 励 『われは復活なり 命なり 〜命と向き合う〜 』   
祈 り           横山恵子さん

 表題は、妹真理子が眠る墓石に刻まれた聖句だ。2008年の初夏、妹は乳がんとその播種による腹膜炎を発症し闘病に入った。入退院を繰り返しながら病状は徐々に悪化、2011年2月余命僅かとの宣告を受けた。カトリック信者である義弟と洗礼について相談した時初めて妹夫婦が教会から離れていた悲しい事情を知ることとなった。「受洗」が大きな課題となったが、結婚式の司式者であった松浦悟郎司教のお力添えを得て、自ら「クララ」という洗礼名を希望して病床にて受洗、まもなく天に召された。人に躓き教会に背を向けていた妹が、イエス様の「許しなさい」との言葉に従うことができたのだ。
 原発事故後、大海の一滴でありたいとの思いで、夫と私は各地の集会やデモに参加している。いまだ福島の方々の苦難は続き、高濃度の汚染水の問題も逼迫し、大量の使用済み核燃料の処理の目途すら立っていない。食品への不安は拭えず、特に幼い子どもたちへの影響は計り知れないからであり、知らなかったことへの贖罪の思いもある。
 そんな集会とデモで出会った詩人・望月逸子さんの音楽に載せた詩は、妹の死を実はまだ受容できず悲しみに暮れていた私に一条の光を与えた。大震災の多くの犠牲者や妹の死を思う時、本当に神はおられるのかと問いかけずにはいられなかった。この詩により犠牲者の魂を神様が救い出す光景が啓示され、「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる」「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」との聖句に導かれた。妹は死の間際に確かに復活の主イエス・キリストに出会うことができた。また連れ合いやフランチェスコとの洗礼名を持つ息子、松浦司教や神父様、また信頼する主治医を通して神様は妹を支え、導いて下さっていたのだ。信じよう!と思った。震災の犠牲者も妹も神様の御許で今は平安の中にあると。
 6月に会津に出かけ、福島の方々が今なお想像を超えた、先の見えない理不尽な苦しみの中におられることを証言者から聞いた。何れにも胸が震えるドラマがあった。若松栄町教会にある会津放射能情報センターは自分と家族の命を守るために闘う方々に正しい情報を伝え、苦しみを共有し、慰めを与える尊い働きを為されている。主イエスもそこにおられるように感じた。ここ東神戸教会が古くから友として交わり、震災と原発事故後も絶えず祈り、センターと片岡牧師ご夫妻を支え、具体的な支援を以て励まし続けてこられたことに深い感銘を覚える。微力ながら共に闘いたいと願う。
 愛する人を失って未だ悲しみの中におられる方々に慰めが与えられるよう、福島の方々に真の平安が一日も早く与えられることを切に祈りたい。




20140824
奨 励 『狭き門』   
祈 り           義本良太さん

 私が卒業した酪農学園大学は札幌の隣、江別市にあるキリスト教主義の大学で、週1回の礼拝は講義の一つとして設定され出席カードの提出もありました。また学園歌の酪農賛歌は賀川豊彦先生が作詞されています。そして大学生協の学生委員会に参加し、組合員の大多数である学生にとって利用しやすくするための活動をしてきました。
 毎日通学時の通る門は「狭き門」と呼ばれていました。これは聖書の中で入学当時から強く印象に残っています。在学中に教会へ行ったことはありませんでした。
 2009年に住吉のシーアで見た賀川豊彦献身100年記念のパネル展示で関連した教会が近くにあることがわかり、一度訪ねてみようと思いました。みなさん温かく迎えてくださり、ちょうどイースター当日でいきなり愛餐会にまで参加させていただきました。
 ザア会、ふくしま・こうべ・・・・。
 盾さんの転任を知り受洗を考え始めました。しかし、そんなに急がなくてもいいのではないか、などとさまざまなことを考えました。盾さんの東神戸教会での最後の礼拝の後でお話ししたことが最終的に背中を押してくれました。生協運動への関わりから導かれて東神戸教会に通い始めたので、これからもよろしくお願いしますという気持ちを持って横山牧師から洗礼を受けようと決意しました。
 皆さんと両親に見守られながら洗礼を受け、受け入れられることの有り難さを感じています。




20140831
メッセージ『腕を前から上げて背伸びの運動』

振起日に当たって―。
教師向け雑誌「ミニストリー」に収録された創作童話「まちのボクシといなかのボクシ」。二人のボクシ、それぞれ生き得る現場は違うが、おのおのの課題の中に生かされている。
 アブラハムは75歳で、行く先知らずの旅に出た。一体なぜ?
 神さまの命令は「行きなさい、祝福する」という順だった。「祝福するから、行きなさい」ではなかった。
 祝福するとは、お前は良いと褒められることだ。「行きなさい、お前は良い」との言葉に、アブラハム自らの選択権はなかった。
 キリスト教信仰には、「そのまま、ありのままで良い」という側面と、その正反対の「お前はそのままで良いのか?」という側面の二つがある。
神さまは様々な出来事を通して、その二つを問いかけられる。深呼吸し、息を整えて前へと進みたい。




20140907
メッセージ 『壁立ちぬ』

 釜ヶ崎の西成労働福祉センターを訪れると、不況や高齢や体調不良などで仕事がなく、横たわっているしかない人々を見て、切なくなる。彼等なら、本テキストをどう聞くだろうか。
 良く知られた「ブドウ園の労働者のたとえ」。通常なら、早くから雇われた者らの不平と不満は当然のことだ。だが、後で雇われた者らは、怠けてそうなったのではなく、雇う者がいなかったからだ。必要とされない存在の心の哀しみを思う。
 「天の国のたとえ」なら、むしろ後から雇われ、先の者と同等の扱いを与えられた喜びを語るべきだったのに何故?と疑問を抱く。
 前段落を振り返ると、そこには主に反感を抱く者、理解しようとしなかった者らがいたことが分かる。彼らこそ、先に雇われた者を自認する人々だった。それゆえ、雇う者(神)の選びと扱いはそこ(神)に帰することを主は語られたのだ。
 幸せは一個を二個にすることではない、とドン小西さん。自分を振り返り、それは先に雇われた者の傲慢さに通じるものだと知らされる。心の中の壁が思いやりを奪う。それを壊すのは壁を乗り越える風との出会いだ。聖霊よ来たれ!




20140914
メッセージ 『何でもそろう世の中で、命が一つとは面白い!』

 ゴリラの世界は思いがけず優しくて強い。事故で障害を負った仲間を皆で支える。その中で、再び自立する力を得て行く光景に、では私たちはどうか?と自問する。
 テキストは「光の子として生きよう」との呼びかけ。陰を持つなというのではない。乱れた教会内の状況に対し、著者は「詩編と賛歌と霊的な歌」を用いて神をたたえよ、と述べる。それらはすべて音楽だった。
 上智大学のアルフォンス・デーケン神父は、本人の体験を通して、悲しみや危機の時にあっても、そこから乗り越える力をもらうことができるとして、「ユーモアを大事にしよう」と語られた。
 音楽は確かに力となる。けれど現実には音楽の苦手な人もいる。手段は一つではない。高校野球だけが高校生のスポーツではなく、マンガや俳句や書道など、神さまが下さっている多くのものがある。無論、ユーモアも。
 「細かく気を配って歩みなさい」(15節)と著者は言う。あきらめるなという励ましだが、自分や人をあきらめるなではなく、神の力をあきらめるなとの意。
 命は一つ。必ずや届くと信じたい。




20140921
メッセージ  『非劇の主人公』

 テキストは、数あるイエスのたとえ話のうちでも、最も暗い話。
 現代に換算して6000億円もの借金を王からなした家来。到底返せる額ではなかった。当然、懸命の懇願をする。と、王は哀れに思い、帳消しにしてやったというのだ。あり得ないたとえ。
 ところがこの家来。100万円の借金をしている仲間の懇願を聞かず、牢に入れたという。
 信徒の友に「空の声」という詩が投稿されていた。神さまの声って、こんなにあるんだ、と知らされる。
 先のたとえば、天の国のたとえだ。6000億の借財とは、神さまの赦しを表す。7の70倍赦せと主は言われたが、神さまの赦しはそれ以上である。
 私たちは自分に都合の良いドラマを作りたがる。悲劇の主人公はいつも自分だ。
 だが、赦されるところが天国だと主は示された。勝手に作らないで良い。造り物でない、生身の、非劇の人生を、神さまはよしとされる。




20140928
メッセージ  『やがて命に変わるもの』

 聖書で言う「広場」は、単に人が集まるところだけでなく、神さまの正義や公正の満ちるところ、つまり神さまの平安があるところを指す。
 テキストは、その広場が広場でなくなっている現状への、預言者からの告発である。「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた」(16節)。
 岩波聖書は「驚かれた」を「訝った(いぶかった)」と訳す。それは悲惨な現状の福島・原発付近の町に重なる。
 「執り成し」とは、通常は人と人の間の仲裁だ。だが、聖書が示す執り成しは、他者のために神と人との間をとりつぐ働きであり、祈りを意味する。
 その執り成しを、神さまは遂に御自分で引き受けられ、一人子に委ねると言われたのだ。
 「人間は二度生まれる」(ルソー)。
私たちは主の執り成しによって新たにされる。そしていずれ主に倣って小さな執り成しをするよう促される。
 私たちは「やがて命に変わる者」として用いられるのだ。




20141005
メッセージ  『ああ栄冠は地味に輝く』

 アジア大会が終わったが、Wカップやオリンピックなどの度、メダル、中でも「金」が幾つ取れるかが話題になる。
 恩師・齊藤皓彦(さいとう・あきひこ)牧師は、私の学生時代、「自分は神さまから金を掘るように言われた」という意見に対して、「神さまが掘るように言われるものは、どんな人も同じで同じ色」だと反論された。それは正しかった。
 「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために・・」とパウロは言う(4節)。
岩波書店版では、「むしろ上に着ることを願っている。それは死ぬべきものが飲み込まれてしまうためである。」となっている。
死ぬべきものとは、私たちの体を始め、限界ある人生に起こる数々の出来事だ。それを覆い包み込んで下さるのが、神さまから与えられる永遠の住み家。これこそを上から着たいと願うとパウロ。
 人生に必要なものは何だろうか?キラキラ輝くものに目を奪われがちだが、愛や優しさは目立たない地味なものだ。見過ごしてしまいそうなものこそが、私たちにとって本当に必要なものではないか。




20141019
メッセージ  『もう幾つ練ると?』

 週刊新潮の表紙を成瀬政博さんが描かれている。彼はキリスト教に触れる絵も多数書いて居て、その中に「メメントモリ カルペ・ディエム」と題されたものがある。「死を覚えよ、今日を生きよ」という意味。成瀬さんは「アダムとエバがエデンの園を追い出されたのは、生きる喜びを与えるため」と解説に書く。
 テキストはアダム(人)の誕生。土の塵で作り、そこに命の息を吹き込まれた神さま。弱くはかない(が故に尊い)者を生かされた神さまの思い。
 更に「人が一人でいるのは良くない」として、助け手を作られた。食べるなと命じられた木の実を食べて、追放されたアダムとエバだったが、死ぬことはなかった。一連の物語には、人に対する神さまの愛が注がれ続けている。確かに成瀬さんの解説には一理ある。
 私たちは常に一定の成果を上げるべく過ごしている。それに意味がないとは言わないが、過剰になり、成果が上がらない場合、自分の欠けを責めたりする。
 神さまが人間を作られる過程で、繰り返し注がれた愛を思う時、欠けを気にしてあくせくしてはならないと思う。求められるのは、ただ感謝して受け入れる事。




20141012
メッセージ  『愛を取り戻せ!』
祈 り          桝田翔希神学生




20141026
メッセージ  『意味こそわが命』

 私たちは人生や物事の意味を探して右往左往しがち。だが、この世的価値観の中でのそれには限界があるのでは。
 テキストの舞台はフィリポ・カイサリア。ここで主は「自分を何者だと思うか」尋ねられた。ローマに支配された圧倒的人工の町で、住民に素直に答える自由などないことを承知の上で問われた。
 次に弟子たちにも尋ねられ、ペトロが「メシア、生ける神の子」と返答した。熟慮して答えたのではなく、反射的返答に過ぎなかった。しかし主は、それを現したのは「人間ではなく、天の父」と返されたのだった。
 或る高校教師の葬儀、彼を困らせた教え子たちが棺に卒業証書を入れ、心からの別れをなした。意味はかように、外から来るのである。
 意味がないと切ることにも意味があると後押しされるのも、待ったをかけられるのも神さまの業。キリスト教は、意味を授ける宗教、それを受けるのが信仰生活。意味こそわが命である。




20141102
メッセージ  『裸を見るな、裸になれ』

 ディズニーランドは人がいてこそ夢の国だ。ガラ空きだと虚構が見え過ぎて引いてしまう。
 テキストは第2イザヤ。イスラエルへの帰還許可を得ても戻らなかった民、及び戻って荒廃した母国に失望した民、その双方に呼びかけた神の言葉集から。
 半世紀近くバビロニアに捕囚となった結果、いつしか再び神を忘れ、自ら造った偶像を信じ込むようになった民たちの実像が語られた。「神さまから与えられたものの半分で腹を満たし、体を温め、残りのもので偶像を造り、それを拝んだ」と。
 偶像を大切にする余り、現実を忘れる「痛恨の極み」の出来事が現にある。
「彼らは灰を食らい、惑わされた心は、その道を誤らせる。彼は自分の魂を救うことができず、わたしの右の手にあるのは偽りではないか、とすら言わない」(20節)。
 他者のハダカを覗き込むような品性の低いことは止めよう。そうではなく、自らがハダカになり、偽りの衣や殻を脱ぎ捨てて、神と隣人(友)の前に立ちたいものである。




20141109
メッセージ 『はっきり言うけど、過去の成績なんて関係ない』

 今年も、土砂災害や地震噴火など大きな災害が相次ぎ、防災だけでなく「幸せ」について改めて考えさせられた年だった。
 千葉の山中先生は、精神科医であり牧師。お連れ合いのゆりかさんは異常妊娠で子を失った時、里親になろうと決意。が、里子には虐待の痕。同じ生年月日の甥と比べて、落差に涙した。その涙が彼女を支えた。色々な事はあったが里子は無事成長し、母の日に絵本「ありがとう、今までもこれからも」をプレゼントした。ゆりかさんの宝物だ。
 エレミヤの預言は、神さまご自身が立てられる救い主である王の到来。人々は「彼こそが私たちの正義」と呼ぶ。人間の正義ではない。そしてそこには愛がある。
 ゆりかさんと里子の間に与えられた温もりと信仰には共通点がある。それは「伝染る(うつる)」もの。強さに頼ると、競わせ、歪むことが多い。が、温もりは育み、次へと伝染る。
 神さまがなしたい最大の働きは「励まし」であり、「慰め」であるに違いない。これこそが神さまが下さる恵み、生涯を支える「今へ」の力だ。過去の成績など関係ない、と神さまははっきり語られる。




20141116
メッセージ 『いろいろ奪うと、大人ができる』

 「成人した今、幼子のことを棄てた」(Tコリント13:11)のパウロの言葉は、「子どものように神の国を受け入れよ」との主の言葉とギャップを感じる。
 「いつから片方ばかり求めるようになってしまったか」(星野富弘)、大人へ成長する過程で奪われたものがあるのでは。
 テキストはサムソンの誕生物語。不妊の妻の名は不明。子どもが授かるというお告げに彼女は驚く。が、夫マノアは驚きもせず、喜びも感じていないかのよう。
 マノアの問いかけに御使いは、名は「不思議」と答えた。マノアとは休息の意。ここに一般常識・この世的価値観のみで生きて来た、よく言えば普通の当時の男性像を想像する。
 自らを「不思議」と名乗った御使いは、マノアに真の休息を持つよう促したのではないか。不思議なことは不思議なこととして受け取る感覚が大切だと。
 アドヴェントは、マノア同様、私たちに、み子の降誕という「不思議」を受け取るよう促される時だ。
 「苦しみを食べ、哀しみもいっぱい食べて、大きな人になるのですよ」(星野富弘)。




20141123
メッセージ  『愛の参加』

 こころの友「この人を訪ねて」欄で紹介された泉堅(いずみ・けん)さん。万座温泉ホテルの会長でありながら、毎夜行われるライヴショーの月半分以上を担当する。歌とキリスト教を全面に出さないユーモアで語られる人生へのお勧めが彼のステージ。
 かつて越路吹雪さんが歌った、岩谷時子訳詩版「愛の賛歌」は、原曲とは相当違う。エディット・ピアフ版は、ラストは「神は愛し合っている人間を結びつけてくれる」と歌って終わる。
 テキストは神さまの天地創造物語のうち、特に六日目の人間の誕生の記事。「見よ、極めて良かった」と神ご自身が思われた私たちであるが、その人生は世の不条理において余りに重い。しかし、よく読んで見ると、神が暗闇を作られたのではなく、暗闇に光を作られたとある。
 神さまは、弱さを持ち、それ故に神を求め、人間が互いに助け合う心を、人間創造の際に練り込まれたのではなかろうか。愛の思い、出来事に参加する者として。だから、「極めて良かった」と思われたのでは。
 愛は試練、逆境を通して成長すると泉さんは語る。神さまが差し招かれる愛に参加したいと願う。




20141130
メッセージ  『世界中の誰よりも、きっと』

 東日本震災で亡くなった若い人の多くが携帯電話を握りしめていたという。かつて特攻で亡くなった兵士たちは「お母さん」と叫んで死んだ。
 イザヤは、捕囚の民、及び本国イスラエルにおいて希望を失った悲しみの人々のもとに現れる救い主の姿を、「いかに美しいことか、山々を巡り、良い知らせを伝える者の足は」(7節)と預言した。
 逆説的である。悲しみの民の元を訪れるその人の足は、疲労と汚れでいっぱいであろう。見た目には美しいはずがない。
 マザーテレサは、インドで死にゆく人々の最後を暖かく介護しながら、「ありがとう」と言って亡くなった病人をそれまでに見たことがない美しい笑顔だったと書いている。
 そんなマザーが「赦して下さい。私が愛していたのは、他者の中の自分でした」と述べている。マザーの真実である。
 この時期美しく輝くイルミネーション。だが、暗闇を照らす光は、ただ照らすのではなく、暖かく包むのだ。
 私たちの悲しみを世界の誰よりも知っている方が到来される。心から待ち望みたい。




20141207
メッセージ  『世界再考をお届けしたい』

 明日12月8日は太平洋戦争開戦日。この詔勅は天皇が出した。その結果、多大な犠牲が出た。
 この開戦の9年前、上智大学でも既に軍事教練が行われており、数人の学生が信仰を理由に拒否した。途端に軍部から圧力がかかり、最終的に学校側が謝罪する形で事なきを得た。
 10日から施行される特定秘密保護法を憂える。事は急に起こるのではない。一つ一つを積み重ねながら、暗闇が増して行くのだ。
 テキストはエレミヤ書。ユダでは激しい異教崇拝が行われていた。そして遂にバビロニア進攻が始まり、ユダは崩れ去り、捕囚が現実となった。
 このような危機の時代にエレミヤは40年に渡って神さまの言葉を伝え続けた。
 聞かれたのではない。ほとんど誰も聞かなかった。神さまからの言葉を彼は弟子のバルクにことごとく記述させた。しかしその巻物も王によって切り裂かれ、燃やされてしまったのだった。
 世界最高を贈りたいと某テーマパーク。私たちは主の誕生をどう覚えるか。それはもう一度考えようという神さまからのメッセージではなかったか。世界再考をいただくXマスとしたい。




20141214
メッセージ  『変わらぬロマンの花を咲かせよう』

 急激に円安が進み、一部の人々だろうが株価に一喜一憂する世相。お金に支配される時代はいつまで?
 ヨブ記は、「利益なしに神さまを信じることができるか」とのサタンの問いから、「塵と灰についての自分の思いを退け改めた」ヨブの物語。(高柳富夫牧師)
 テキストは、ヨルダン川で洗礼を授けていたヨハネに「何者か?」と祭司やレビ人が問うた箇所。彼らはエルサレムのファリサイ派から遣わされた者たちだった。そこにあったのは、ヨハネへの予断と偏見と恐れ。まるでヨブに対するサタン。何のために、ではなく、何によってなしているかの思いは何もなかった。お金のためにでは決してなかった。
 大前光市さんは12年前左足を失った義足のダンサー。絶望の中から自分にしかないダンスを追求、義足だからできる才能に気づかされて行く。
 困難や苦しみの中にこそ、神が私たちと共にいて下さる。私たちは利益ではなく、生かされて神と人と共に生き抜く者
である。
 この事を指し示して下さる方の誕生が近づいた。ともども心待ちにしたい。




20141221
メッセージ  『置かれた場所で咲きなさい』

 聖書は歴史書でも科学書ではない。マリアの処女降誕の記述は、疑問。が、そこに科学を超えたものの示唆がある。それをこそ受け取りたいと思う。現実には性的暴行を受けた結果かもしれない。そうだとすれば、当時の女性に向けられた冷酷な批難を想像する。
 出産だけのことでなく、被害者なのに加害者扱いの現実は、今もある。その現実に人は一人で耐え偲ばねばならないだろうか。逃げずに立ち向かう、違う現場を選ぶ選択肢もあろう。が、問題は「行き場がない」場合だ。
 受胎告知物語は、逃げ場のないマリアに対する神さまの大きな励ましである。私がついている。一人ではない。
 釜ヶ崎の労働者Eさんは「一緒にいてくれることが応援」と語る。
 かつて既に救い主の預言がなされていた。神さまは一人の救い主を与えられ、その名はインマヌエルである、と。神さまは繰り返し「共にいる」ことを告げられて来た。
 過去を変えることはできない。が、未来のために備えることはできる。クリスマスは、インマヌエルの事実を知る時である。




20141228
メッセージ  『時は流れない、それは積み重なる』

 日本人的思考の一つに「水に流す」というものがある。だが、本当にすべてを水に流すことなどできない。
 一年の最後の礼拝にあたり、ただ「モノ」だけでなく、生きる力を下さる神さまを覚えたい。
 2年前、梅田で起きたホームレス襲撃・殺人事件の背景には、命が大事にされない現代社会がある。
 ミカ書は「残りの者」に対する神さまの愛を描く。卑劣なやり方で弱者から奪い取る為政者。傷つけられ、小さくされる「残りの者」。このいと小さき者へ注がれる神さまの愛。
 この世の価値観からすれば、挫折とか病気とかはみなマイナス。しかし神さまが下さる恵みは、それらをつまづきとはしない。残りの者には、それが示され、救いが約束される。
 私たちは「水に流して」忘れたい時があるけれど、神さまはそうなさらない。むしろすべてを覚え、それを積み重ね、その熟成の中で私たちを育てて下さるのだ。感謝!




20150104
メッセージ  『悲しみの始まり、しかし・・・』

 自閉症の兄のお蔭で自分は生まれることができた。感謝している。しかし世話を強いられる事に悩む。その葛藤の中で成長する少年を描いた「唇に歌を」;中田永一著、小学館。
 出生に関わる秘話や定めを聞くと、誰でも悩んだり、恨んだりする。イエスの出生の際にも恐ろしい出来事があった。
 東の博士たちへの怒りから、ベツレヘムと周辺の2歳以下の男子を皆殺しにしたヘロデ王の大虐殺である。
 ヨハネはその主に対して「世の罪を取り除く神の子羊」と表現した。それはイザヤ書53章7節に背景がある。ほふり場に連れて行かれる子羊を見て、人々は歓声を上げた。しかし流された血は、実は人々のためであった。
 主の人生はまさにそれだった。確かにクリスマスにまつわる出来事としてはおぞましい事件であり、忘れてはならない事である。
 私たちも気をつけなればならない。悲しみの始まりだったが、それで終わらなかった救い主の人生。この人こそ「愛の化身」だった。クリスマスは実はここから始まった。




20150111
メッセージ  『垣根の曲がり角』

 「イスラム国」の過激行動が世界を揺るがしている。イスラエルとパレスチナの対立、中国・韓国と日本の関係悪化、シリアの内戦など憂いが尽きない。どの国も自国の正当さを語る。
 テキストは、およそ2500年も前から神さまが語られた「平和」が綴られる。有名な「終末の平和の幻」である。
 ただ闘いがないというのでなく、武器を打ち直して農具に変えて用いるという、これぞ本家「積極的平和」だ。
 それは「敵」と目される者や自然をも含めて共に生きる平和でもある。
 「キリガイ」と題されたICU高校のキリスト教概論の授業の感想をまとめた本に、一人の女子生徒が、父親が示した愛の行動に深く感動を与えられたと書いている。
 晴佐久昌英神父は、「気持ちがつながれば必ず伝わると信じて関わることが、私たちに託された使命」と述べている。
 現状を見る限り、「終末の平和」の実現ははるか遠い出来事のように思われる。
 だが、皆が逃げ去りたった一人残された主の死後、2000年に渡り福音が述べ伝えられて、今日に至った。励まされるハッピーエンドの開始だ。曲がり角の先にあるたき火の暖かさを信じたい。




20150118
メッセージ  『私たちは誰なのか』
祈 り           中島正勝牧師




20150125
メッセージ  『空を見上げて』
祈 り           岡本拓也牧師




20150201
メッセージ  『わたしだけ美人だったら良いのに』

 グリム童話(特に白雪姫)を原作で読むと、そこに潜む人間の本性のおどろおどろしさに身がすくむ。美を独り占めしようとすることの醜さ。
 テキストは2つ。まず最初の断食に関してのイエスの言葉。その前の、施しと祈りに関しての言葉同様、人に見てもらいたいがための行為に、厳しい戒めがかけられている。それは「見苦しいこと」だと。
 次の段落は「天に宝を積む」ようにとのお勧め。それは、独り占めするのでなく、分かち合うことではないか。
 大阪地下鉄構内で起こった助け合いの出来事を思い起こす。一人の行動に刺激されて多くの人々がそこに加わった。分かち合うとは、もののことだけでなく、こうした行為のことをも含む。
 自分だけ美しくても意味はないのだ。
沖縄へ行って、美しいこと(ちゅら)とは、清いこと、清々しいことと教えられた。美しいことは、知らせ、分かち合うことの中で、更に広まるのだと思う。




20150208
メッセージ  『唯一、僕にできること』

 何であれ、疑いなく完全に信じることは難しい。半信半疑であっても、かえって関わりや体験を通して「信じられる」よう促されて行くことは多々ある。
 テキストはガリラヤ湖の漁師たちが弟子にされた箇所。この短い段落に驚くべきことが記されている。まず、相手が信じられるかどうか分からないのに、彼らがすべてを捨てて従ったことだ。通常、あり得ない。
 更に、主が彼らに「自分を信じよ」ではなく、「従え」と声をかけられたこと。
 「信じるならば、第一歩を踏み出せ」とボンヘッファーは言う。従順の行為こそあなたに命じられている、と。
 旧約には「誓ってはならない」という言葉が繰り返される。人間の意思の弱さを見込んだものか。通常は、誓約こそが求められるこの世の常識とは真逆である。
 無論、従うこと自体も生易しいものではない。だが、ついて行くうちに、当初とても器でなかった者が、次第に変えられて行く恵みは確かにある。
 弟子たちのみならず、私たちにも信じるかどうかに勝って「従う」ことが求められる。それが唯一、僕にできること。




20150215
メッセージ  『G難度への挑戦』

 体操世界選手権で昨秋5連覇を果たした内村航平選手。床種目でなすG難度の技に感嘆させられる。そこに至る努力の大切さを思わないではいられない。
 ベトザタ(慈悲の場所)の池でイエスは病人を癒された。麦の収穫の祭りでごった返す神殿の一方、ベトザタの北池と南池に挟まれた第5の回廊には癒しを求める病人があふれていた。
 そこに38年病気を抱えた人がいた。それは人生のすべてが病気だったということを意味する。
 良くなりたいか、と主は問うた。それは「誰も助けてくれない。池に入りない」という病人の返答に、希望の一切を失った人への深い哀れみに満ちた問いかけだった。「健やかになりたいか」(岩波聖書)の方が適訳。
 本人の努力と関わらない世界がある。「起き上がりなさい。あなたの寝床を担ぎなさい。そして歩くのだ」とイエスは命じられた。彼はただちにそうした。この主の言葉こそ待ち望んだ癒しであり、励ましだった。これぞG難度の挑戦だった。
 私たちは自身の努力だけで生かされてはいない。神さまの言葉によって支えられる。主の言葉は私たちにもかけられている。




20150222
メッセージ  『どうしておなかが減るのかな?』

 「おなかのへるうた」(阪田寛夫作詞・大中恩作曲)は、見事だ。どうしたっておなかは減るのだから。
 マタイの記す主の荒れ野での出来事。40日とは実数ではない。試練を象徴する数字。 断食を終了し、一息つこうとされた主に、連続して悪魔の誘惑が重ねられる。そのどれもこれもが魅惑的な内容である。
 マルコの記述と合わせて読むと、一つの課題が終わっても、すぐ次の課題が与えられる人生を思い描く。大抵は弱っている時だ。
 そのような時、「神の子」イエスがことごとく誘惑に打ち勝ちました、と伝えようとしたのではない。最後の11節を、ルカ福音書並行記事と合わせ読むと、悪魔が力強い主を諦めたのではないこと、覆っていた黒布を取り去って見ると天使の守りがあったことが分かる。
 イエスの力強さ、そしてそれに倣うようにとのメッセージではないのだ。主もまた天の支えによって一つ一つ課題を受けた。
 私たちも実はそうだ。暗闇のように思える現実も、神さまの支えによって守られている。個人の努力の前に、それが置かれている。
 感謝!




20150301
メッセージ  『伝力不足を補え!』

 日本におけるカトリック教会の不振の原因を、聖書の言葉が難しいからとして山浦玄嗣さんは、ケセン語に続きセケン(世間)語の聖書(ガリラヤのイェシュー)を出版した。
 テキストは主が盲人を癒された箇所。しかし著者の関心は現象的な視力の回復にではなく、その奥にあるものだった。
 生まれつきの盲人にとって、視力以上に精神的に傷つけられ、忘れられた存在だったことの方が大きな課題だった。
 弟子たちの心ない問いに主は「神の業が現われるため」と答えられ、「私は世の光」と続けられた。その瞬間男性は主を信じた。それこそが奇跡の癒しだった。彼はその時点で「見える」ようにされたのだ。
 つばで土をこねて目に塗り、シロアムの池に行って洗わせたことは付け加えに過ぎなかった。
 未曾有の大事故に遭っても、現状を隠し伝えようとしない政治を思う。
 山浦さんは懸命に伝えようとされる。手段は幾らでもある。伝えようとする努力が大事。主もまた、それをいつも大切にされた。
 その主の光は私たちをも照らす。照らされた私たちも伝える努力をなしたい。




20150308
メッセージ  『健康のためなら死んでもいいのか?』

 テキストは、イエスがベタニヤのラザロ・マリア・マルタ兄弟の家に立ち寄った時の出来事。
 マリアが高価で知られるナルドの香油を用いて主の足を洗い、更には自分の髪でぬぐった。もてなしにしては通常あり得ない。
 たちまちユダが「香油を売って貧しい人々に施すべき」との反論をなした。彼の本心は別としても、意見そのものはいちおう納得できる。
 が、この直前に、過ぎ越しの祭りに集まった人々が好奇心で主を求め、それに乗じて当局がイエスを逮捕しようとしていたことが書かれている。
 群集はラザロたちの家の所在を突き止め、当局はラザロをも殺そうと画策していた。
 マリアの行為は一見無駄遣いに見えるが、この緊急事態のさ中のことだった。及びその後の十字架の出来事へ至る前の、励ましの行為だったのだ。何が起こるか分からなかったにせよ、マリアは火急の状況を悟っていた。ユダの発言は自分本位、本末転倒だった。
 その後十字架で流されたイエスの血は、香油以上にかけがえのないもの、そしてそれが皆を包んだ。福音書記者たちは、マリアの行為と主の血を重ね合わせて見たのだ。




20150315
メッセージ  『この引導が目に入らぬか!』

 私たちは一つを選べない、分けられない存在だ。ただ、もし第一を選ぶことができたら、おのずと第二は付いて来る。
 第一が「お題目」になると、第二以下も当然揺らぐことになる。マタイ22:34からの一段落「最も大切な掟」の出来事は、それをよく表している。
 目の不自由な障碍者スポーツの世界では「コーラー」と言われる呼びかけ手の役目が大きい。
 テキストはペトロたちを連れて高い山に登られたイエスの物語。疲れなのか、恐れなのか、主の姿に興奮したペトロは「小屋を作ろう」と勘違いを起こした。
 その惑いの中で、「これに聞け」との神の声が掛けられた。これぞ、真のコーラーであり、引導である。
 一つを選べない私たちに、「これに聞け」との引導が渡される。ここぞ、という時の神の引導を受け入れる者でありたい。




20150322
メッセージ  『むしろ、永いものに巻かれよ』

 釜ヶ崎でなす集会やデモのたびに、恐れや不安を感じる。黙って長いものに巻かれている方が安全と心のどこかで思う。だが、釜の人たちの声に励まされ、小さな勇気を振り絞って関わっている。
 テキストのイエスのたとえに疑問を抱かされる。そのまま受け取れば、農夫が悪しき者として設定されており、通常見られる現実と反対であるからだ。 一体なぜ?そのカギは聞かされた民衆の「そんなことがあってはなりません」という答え、及び背後にいたであろう律法学者や祭司長の反応にある。
 実は民衆にではなく彼らにこそ聞かそうと思って語られた皮肉なたとえだった。神さまをないがしろにし、弱者を痛めていたのは彼らであった。キリストは「従順」だったと記される。それは神さまへの従順であってこの世へではないことを特に覚えたい。都合良く「従順」さを強いられることは、神の望みでは決してない。
 働くという字は、人偏に動くと書く。人のために心を動かし、体を動かし、思いを動かすのだ。それが働きであり、働くということ。
 君(主)と共に創る未来は、そうでありたい。その未来に続く道は、今もう始まっている。真に永いもの(神の真理)に巻かれて、その道を歩みたい。




20150329
メッセージ  『継続は血からなり』

 皆既日食で、映像ながら太陽が消えてゆく時の、心がざわめく思いを味わった。
 ゲツセマネの園において、主は通常の祈りとは違う、血と涙がしたたるような祈りをささげられた。オリーブの実は搾られ油とされて広範に用いられたが、「油しぼり場」との場所の祈りは、偶然とは思われないものがあった。
 が、特に選ばれ伴ったペトロたち3人は、「目を覚ましているよう」再三命じられたのに、三度も眠りこけてしまった。
 確かに肉体は弱い。が、彼らの眠りは、実は現実拒否、逃避によるものだった。それを受け入れることは主の予告を受け入れることだったから。
 それでもなお、主は祈られた。見つめるべきものがある。人の弱さの先にある真実。
 テネブラエ(闇)の礼拝は、毎週1本づつローソクを消して行く。主の歩みの象徴である。ただ現実ではなく、真実を見つめるよう、主は彼らを受け入れ、「立て、行こう」と誘われた。その呼びかけを私たちも心に留めたい。欠ける太陽を見に!歩み続ける力は主の血と呼びかけから与えられる。


 
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